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➁黄昏の鶴飼橋(啄木文学さんぽ~小説「鳥影」編~)

第2回目「鶴飼橋」

信吾から本を借りるため小川家を訪ねた智恵子。帰るときに、信吾の妹・静子が途中まで智恵子を送ってくれました。そして、午後四時頃の鶴飼橋の上で二人は、西日を背に川風にあたります。

「此処は村での景色を一処に聚めた。北から流れて来る北上川が、観音下の崖に突当つて西に折れて、透徹る水が浅瀬に跳つて此吊橋の下を流れる。五六町行つて、川はまた南に曲がつた。この橋に立てば、川上に姫神山、川下に岩手山、月は東にのぼり、日は西の峰に落つる。折柄の傾いた赤い日が宙に浮んだ此橋の影を、虹の影の如く川上の瀬に横たへて。」(「鳥影」(五)の三)

実際に啄木も午後四時頃の鶴飼橋の上に立ち、そこから眺める景色が好きだったようで、このように小説にも反映されています。

そして、時に橋の下を流れる北上川の水瀬の音は、心にやすらぎを与えてくれました。

「夏の夜、この橋の上に立つて、夜目にも著き橋下の波の泡を瞰下し、裾も袂も涼しい風にハラめかせて、数知れぬ耳語の様な水音に耳を澄した心境は長く長く忘られぬであらう。」(「鳥影」(九)の二)

「幸福とは何か。」「愛とは何か。」そんなことを考えているうちに深い思考の沼にはまってしまった智恵子。北上川の流れは、彼女の心のわだかまりを紐解いてくれる存在として登場します。

 

小説では、鶴飼橋は、癒しの場所として描かれていることが多いですが、当時の写真を見ると、今の様に手すりがあるわけでもなく、かなり揺れそうです。流れの激しい北上川の上を当時の人はひやひやしながら渡っていたのではないでしょうか。

渋民の人々の重要な通行拠点となっていた鶴飼橋。流れが激しく橋の流失を繰り返していましたが、渋民村の下田地区に住んでいた竹田竹松氏が日清戦争に召集された際、召集先で見た吊り橋からヒントを得て、この橋の架設に奔走し、明治35、6年に架設したと言われています。現在の鶴飼橋は、昭和59年にかつての吊り橋をイメージして作られました。現在でも北上川の流れは激しく、筆者には、優しさというよりは勇ましさを感じさせます。そして、この川が流れる先には「男神」とも称される岩手山が悠々たる姿でたたずんでいるのです。鶴飼橋の上に立つと、周囲の自然へ粛然とした気持ちになります。一方で、渋民の自然を心から愛していた啄木に見せる自然の表情は、優しく、彼をつつみこんでくれる存在だったのっではないでしょうか。橋の上に立つ人によって、そこで感じる感情はさまざま。みなさまも、啄木のふるさと渋民にいらした際は、鶴飼橋の上から啄木文学に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

鶴飼橋の架設に奔走した竹田氏の顕彰碑

 

今年で建立100年を迎えた啄木第一号歌碑。鶴飼橋の近くにあります。

明治時代後期の鶴飼橋

鶴飼橋からすぐのとこにある喫茶緑青さん!テイクアウトもできますし、店内でも食べれます。ここのナポリタン、絶品です!

現在の鶴飼橋

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