記念室の様子
この記念室では、盛岡市に生まれ、終生故郷を愛してやまなかった言語学者、金田一京助の業績や歌人石川啄木との交流などを、次に掲げる六つの項目に分類して紹介しています。
記念室平面図
金田一京助記念室の平面図です。図の上の各コーナーの名称をクリックすると、それらの画像と簡単な説明へジャンプします。
私の歩いてきた道
言語学者としてアイヌ語学の権威となり、国語学者としても様々な著作を著すなど活躍しました。また辞典・教科書等の編集や監修でも広く知られています。ここでは金田一の学問・文学に関する資料・写真を展示しています。
錦木荘(にしきぎそう)
1936(昭和11)年、金田一は東京杉並に自宅を建てました。その書斎から見える風景は金田一の心をなごませ、その書斎を自ら『錦木の屋』と呼んでいました。ここではその自宅の一部と、その当時の部屋の様子を再現してあります。『錦木荘』という名前はご子息である金田一春彦氏に名付けていただいたものです。
盛岡の思い出
“ほんとうに、盛岡を思うと、まずすぐにあの秀麗な岩手山の山容が我々の目にうかぶ。中津川原から北上河岸!つづいてみえてくるものは、何といっても、親、兄弟の顔である。”(『金田一京助随筆選集3』より)
金田一は終生故郷を愛し続けました。ここでは金田一と故郷盛岡に関する資料・写真を展示しています。
啄木と私
1895(明治28)年、盛岡高等小学校での出会いに始まる啄木との交流は、盛岡中学時代の短歌同好会「白羊会(はくようかい)」をへて、東京・赤心館(せきしんかん)、蓋平館(がいへいかん)での同宿時代へと続きました。啄木の晩年、貧乏であった彼の生活を、けっして豊かと言えなかった金田一が支えた話は有名です。ここでは二人の交友に関する資料・写真を展示しています。
思い出の人々
金田一は盛岡中学以来、数多くの友人、恩師や協力者に恵まれ、終生その交流を大切にしました。また教育者としても多くのすぐれた研究者を育てています。ここでは金田一の家族と、交流があった人々に関する資料・写真を展示しています。
遺品・遺墨
故郷を愛した金田一は、その中でもとりわけ岩手山の山容を愛しており、それにちなんだ和歌を詠み、書を残しています。またアイヌの人々との交流のために、何度も北海道・樺太へと足を運んでいます。ここでは金田一の書や実際に使ったトランクやメガネなどを展示しています。