金田一京助に関する展示資料(一部)
受講ノート「国語史」
1904(明治37)年、金田一が東京帝国大学文科大学の言語科に入学したころは、日本の言語・国語学の草創期で、上田万年(かずとし)や新村出(いずる)らが講義をし、橋本進吉や小倉進平、伊波普猷(ふゆう)らが金田一の学友であった。このノートは上田教授の「国語史」を受講した際のものである。
石川啄木葉書
1905(明治38)年1月9日付。内容は上京した金田一を迎えに行くつもりだったが、朝寝坊のために行くことができなかったことを謝っている。またその夜にうかがってもよいかどうか尋ねている。このころ啄木は処女詩集『あこがれ』を出版するために2度目の上京をしていた。
石川啄木とともに
1908(明治41)年11月ごろに、金田一、啄木ともに関係のあった短歌雑誌『明星』の終刊に際して撮影したもの。この年啄木は北海道から文学で身を立てるべく東京に移り住み、金田一の下宿に転がり込む。定職がない啄木のため、就職したばかりの金田一の給料が2人の財布となった。
書
「岩手山 高し尊し 神の如 わが仰ぎ来し 故さとの山」
“花明”と号し若いころから和歌をたしなんだ金田一は、故郷の山岩手山についても歌を多数詠んでいる。
名誉市民推戴状
1959(昭和34)年4月1日、盛岡市制70周年記念に際し、金田一は盛岡市名誉市民第一号に推される。現在盛岡市名誉市民 は金田一京助だけである。
アイヌ叙事詩ユーカラ集
1959(昭和34)年12月から1975(昭和50)年12月まで合計9冊が出版されている。アイヌであり優れた叙事詩人(ユーカラクル)であった金成マツが書き残したノート70余冊と、金田一自身がアイヌの古老から聞いて筆録したノート46冊の一部を邦訳したもの。金田一の死のため、現在その邦訳は中断している。
スケッチブック
1915(大正4)年、この夏金田一は柳田国男の口添えにより北海道庁の依頼で樺太へ調査に訪れている。このスケッチはその時描かれたものであり、アイヌ の人々の暮らしの様子や道具、樺太の風景や植物などが約70点余り描かれている。