新渡戸稲造
盛岡藩士新渡戸十次郎の3男として盛岡に生まれる。札幌農学校在学中にキリスト教の洗礼を受け、卒業後にアメリカ、ドイツへ留学し農学、経済学などを学ぶ。
帰国後札幌農学校教授となるが体調を崩し、米カリフォルニア州で療養する。その間に妻や恩師に問われていた日本の伝統的な道徳教育についての考えを『 BUSHIDO(ぶしどう) THE SOUL OF JAPAN』としてまとめて出版。この本は日本文化の紹介書として各国語に翻訳され、今も版を重ねている。
のちに京都帝国大学や東京帝国大学で教鞭を取り、第一高等学校校長、東京女子大学学長などを歴任、その人格教育は多くの生徒に影響を与え、また当時遅れていた女子教育にも取り組んだ。国際連盟の設立時にはその深い学識と高潔な人格のため事務次長に推され、スイスに渡り連盟の発展に寄与している。
1984(昭和59)年11月には旧5千円札の肖像となる(現在の5千円札の肖像は津田梅子)。
【1862(文久2)年8月8日~1933(昭和8)年10月16日】
生涯
1862年 (文久2) |
0歳 | 8月8日(旧暦。新暦では9月1日) 、盛岡鷹匠小路(現:下ノ橋町)に生まれる。 |
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1867年 (慶応3) |
5歳 | ※父十次郎死去。 |
1871年 (明治4) |
9歳 | 叔父太田時敏の養子となり、上京。 ※祖父伝(つとう)死去。 |
1873年 (明治6) |
11歳 | 東京外国語学校に入学。 |
1877年 (明治10) |
15歳 | 札幌農学校に第二期生として入学。 |
1880年 (明治13) |
18歳 | ※母、死去。上京以来一度も会うことができなかった。 |
1881年 (明治14) |
19歳 | 札幌農学校卒業、開拓使御用掛勧業課勤務となる。 |
1883年 (明治16) |
21歳 | 東京大学選科生となる。面接試験のとき「太平洋の架け橋となりたい」と答える。 |
1884年 (明治17) |
22歳 | 東京大学退校。アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に入学。 |
1887年 (明治20) |
25歳 | ドイツのボン大学にて農政、農業経済学を勉強する。 |
1889年 (明治22) |
27歳 | 長兄七郎死去により、新渡戸姓に復姓する。 |
1891年 (明治24) |
29歳 | アメリカ人のメリー・エルキントンと結婚。帰国し札幌農学校教授となる。 |
1894年 (明治27) |
32歳 | 札幌に、貧しくて学校に通うことの出来ない子供たちのために 遠友夜学校を設立。 |
1900年 (明治33) |
38歳 | 病気療養中に執筆した『BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN』がアメリカで出版される。 |
1901年 (明治34) |
39歳 | 後藤新平の熱心な誘いにより、台湾総督府技師となる。翌年、臨時台湾糖務局長となり台湾でサトウキビ栽培の指導にあたる。 |
1903年 (明治36) |
41歳 | 京都帝国大学法科大学教授となる。 |
1906年 (明治39) |
44歳 | 第一高等学校(現:東京大学教養学部)校長兼東京帝国大学農科大学教授となる。 |
1911年 (明治44) |
49歳 | 第一回日米交換教授として渡米、各地の大学で講演にあたる。 |
1917年 (大正6) |
55歳 | 東洋協会植民専門学校(現:拓殖大学)2代学監となる。 |
1918年 (大正7) |
56歳 | 東京女子大学初代学長となる。 |
1920年 (大正9) |
58歳 | 第一次世界大戦後に国際連盟が設立され、国際連盟事務次長に就任。 |
1926年 (昭和元) |
64歳 | 国際連盟事務次長を辞任。 |
1928年 (昭和3) |
66歳 | 女子経済専門学校(現:新渡戸文化学園)初代校長となる。 |
1932年 (昭和7) |
70歳 | 国際的孤立を深める日本のため渡米、各地で講演をする。 |
1933年 (昭和8) |
71歳 | 10月16日(日本時間)太平洋会議に出席後病状が悪化、カナダのビクトリア市にて客死。 ※日本が国際連盟を脱退。 |