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新渡戸稲造に関する展示資料(一部)

武士道(初版本)

武士道(初版本)1900(明治33)年1月、米国フィラデルフィアのリーズ・アンド・ビドル社より刊行。以前妻や恩師に尋ねられた“日本の宗教教育はどのように施されているのか?”と言う問いに答えるために書かれたもの。この本はのちに日本を知る格好の書物として各国語に翻訳され、日本でも1908(明治41)年に訳されている。第26代米大統領セオドア・ルーズベルトも、日本人を知るためにこの本を愛読した。

札幌農学校教授時代

札幌農学校教授時代1891(明治24)年3月、新渡戸は妻メリーとともに札幌におもむき、札幌農学校教授として働く。この写真はそのころに撮影された。彼の活動は農学校だ けにとどまらず、スミス女学校(現北星学園)や遠友夜学校の設立にかかわり、多くの人々に勉強をする機会を与えた。右側の人物が新渡戸、左側の人物は同郷人で、後に北海道帝国大学初代校長となる佐藤昌介。(加藤武子氏提供)

色紙

色紙「国を思ひ 世を憂うればこそ 何事も 忍ぶ心は 神ぞ知るらん」
1932(昭和7)年に書かれたもの。
この年の2月、新渡戸の身に松山事件が起こる。これは松山市で講演の後、彼の泊まっていた旅館における地元新聞記者との話の中で、“我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら今では軍閥と答えねばならない。”と言ったことが世論により非難された事件。このため新渡戸の身辺に危険が迫ることとなる。この歌は知人に宛てた手紙の中で使われている。

双六

双六縦166.2センチメートル×横116.5センチメートル。
1897(明治30)年ごろ新渡戸自身が描いたもの。ふりだしのコマが“病院の移転”で、あがりが“伯爵祝の鰻どんぶり”となっている。その他のコマにも“役人の閑居”や“Mercy!! Abnigh!!!”などがあり、新渡戸のユーモアセンスがうかがえる。またこの絵の中には新渡戸本人や、メリー夫人と思われる人もいる。

署名簿

署名簿<1926(大正15)年、新渡戸が国際連盟事務次長を辞任する際、職員から贈られたもの。事務総長のエリック・ドラモンド卿も文を寄せている。新渡戸は 1920(大正9)年5月に国際連盟事務次長となり、国際知的協力委員会(現ユネスコ)の設置、オーランド諸島帰属問題の調停など精力的に活動を行った。

母の書簡

母・せきの書簡新渡戸は少年時代に母せきより送られた手紙全13通を巻物の形に仕立て直して、終生大切に保管した。新渡戸の書いた『随想録』によると、年1回はこれをひろげて読み、「精神の渇(かわき)」を癒したという。

宮部金吾あて書簡

宮部金吾あて書簡1883(明治16)年5月9日付。
札幌にいた新渡戸が当時東京にいた友人宮部金吾に宛てたもの。この手紙の中で、宮部の婚約を祝福するとともに、宮部と内村鑑三の友情に対して感謝の意を表している。このころ新渡戸は札幌農学校を卒業して、札幌農学校予備科教授として働いていた。この年の9月に東京大学選科生となり、その面接のときに“太平洋の架け橋になりたい”と答えている。

子供用革靴

皮靴1887(明治20)年8月作製。
この靴は新渡戸がボンに滞在中に作製したもの。新渡戸は靴を作製した理由として著作『帰雁の蘆』によると、多くの哲学者・宗教家・文学者が靴屋の出であることを本で読み、製靴の稽古を始めたという。