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展示資料(一部)

「新高」分隊長時代

「新高」分隊長時代1906(明治39)年9月、26才のころ撮影。米内はこの年の6月に旧紀州藩士大隅宗岷の長女コマと結婚した。しかし結婚してからわずか4日後に巡洋艦「新高」に分隊長心得として乗船することとなる。右端が米内。

書「花香月影」

書「花香月影」昭和10年代に書いたと思われる。米内の友人であった緒方竹虎は米内の書について“書は我流であるが趣味といえば趣味であった。書き上げた字そのものよりも、静座に似た揮灑中の趣を愛したのかも知れない。我流であるから書風は必ずしも一定していなかったが、どこか支那人風の落ち着いた、米内の風格を想わしめるものであった。”と著作『一軍人の一生 提督・米内光政』に書いている。

海軍大将大礼服

海軍大将大礼服米内は1937(昭和12)年4月1日付で海軍大将に任ぜられた。1940(昭和15)年総理大臣就任の時にも、この礼服に身をつつんで臨んだ。このころ米内は軍籍から退くことを決めていたのだが、急な組閣によりモーニングの仕立てが間に合わなかったため礼服を着用している。

内閣総理大臣辞令

内閣総理大臣辞令1940(昭和15)年1月16日付。この当時日独伊三国軍事同盟を締結して戦線を拡大させようとする主戦派と、それを何とか阻止しようとする親英米派が激しく対立していた。天皇自身はこの同盟に賛成しておらず、そのため同盟反対を終始唱えていた米内に大命が下ることとなる。時流に逆らい米国との戦争を回避しようとしたが、主戦派である陸軍の反対によりわずか6ヶ月で辞任することとなった。

皇后陛下御下賜の絵皿

皇后陛下御下賜の絵皿米内の皇室を思う心は厚く、また天皇・皇后両陛下も米内を信頼した。この絵皿は、太平洋戦争終結のために尽力した功績により皇后陛下から直接米内に御下賜されたもの。天皇陛下からも、普段陛下がお使いになっていた硯を、直接御下賜されている。

色紙

色紙1946(昭和21)年に書いたと思われる。この漢詩は唐代の詩人高適(706?~765)の「董大に別る」という詩である。詩の内容は“君を理解してくれる人は誰もいないなんて事は心配するな。天下の人々は誰一人として君を知らないものはいない。”というもの。

高木惣吉書簡

高木惣吉書簡1947(昭和22)年8月15日付。終戦より2年の月日が流れた感慨を述べ、米内の近況を尋ねている。高木惣吉は1944(昭和19)に当時の海軍次官(大臣は米内)井上成美の密命により、終戦工作のために尽力した人物である。