米内光政
旧盛岡藩士米内受政(よないながまさ) の長男として盛岡に生まれる。盛岡中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従軍した。後にロシアやポーランドなど ヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚く、1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任、しかし陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には小磯内閣のもとで4期目の海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省の責任者として日本海軍の最期を見届けた。
【1880(明治13)年3月2日~1948(昭和23)年4月20日】
生涯
1880年 (明治13) |
0歳 | 3月2日南岩手郡三ツ割村下小路(現盛岡市愛宕町)に生まれる。 |
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1886年 (明治19) |
6歳 | 鍛冶町尋常小学校(現在の上ノ橋辺りにあった)に入学。 |
1890年 (明治23) |
10歳 | 盛岡高等小学校(現下橋中学校)に入学。 |
1894年 (明治27) |
14歳 | 岩手尋常中学校(現盛岡第一高等学校)に入学。 |
1898年 (明治31) |
18歳 | 海軍兵学校(広島県江田島市)に入学。 |
1901年 (明治34) |
21歳 | 海軍兵学校卒業後、海軍少尉候補生として練習艦金剛に乗船する。その後様々な艦を乗り継ぐ。 |
1904年 (明治37) |
24歳 | この年海軍中尉に就任。 ※日露戦争開戦 |
1914年 (大正3) |
34歳 | ※第一次世界大戦勃発 |
1915年 (大正4) |
35歳 | ロシア大使館付武官事務補佐に従事。1917(大正6)年には船上勤務に戻るが、この後にもヨーロッパでの仕事に就く。この間の経験が後の米内の世界観につながる。 |
1930年 (昭和5) |
50歳 | 海軍中将に任ぜられ、鎮海要港部司令官となる。この後第三艦隊司令長官、連合艦隊司令長官等を歴任。 |
1936年 (昭和11) |
56歳 | 二・二六事件が起こる。当初から首謀者を反乱軍として事件に対処する。 |
1937年 (昭和12) |
57歳 | 海軍大臣となり日独伊三国軍事同盟に反対。その後3期務める。 |
1940年 (昭和15) |
60歳 | 内閣総理大臣となる。対英米戦争に反対するが、陸軍大臣畑俊六が辞任、半年で内閣が倒れる。 |
1941年 (昭和16) |
61歳 | ※太平洋戦争勃発 |
1944年 (昭和19) |
64歳 | 4期目の海軍大臣に就任、戦争終結に力を尽くす。最終的には7期海軍大臣を務めることとなる。 |
1945年 (昭和20) |
65歳 | 終戦後、最後の海軍大臣として海軍省の幕を下ろす。 ※太平洋戦争終了 |
1947年 (昭和22) |
67歳 | 極東軍事裁判法廷に元陸軍大臣畑俊六の証人として出廷。 |
1948年 (昭和23) |
68歳 | 4月20日死去。 |